お金がないと即刻というか一ヶ月たてば請求書がいっぱいやってきてたちまち悲鳴をあげてしまう。
お金を稼ぐ為に働きに行く。自己実現をするためにお金が要る。食べる為に、生きて行く為にお金が要る。
そう思っている。それはそれで間違いないのだが、お金がなくても暮らしていけるという考え方もあるみたいだ。
みたいだ、というのは実感できていないからそう言うのだ。回りを見渡してお金を必要とせず暮らしている人など見たことがない。浮浪者はどうなのか、お金を使っていないのかは知らないが、浮浪者にはとてもじゃないが成りたくもない。
最近読んだ絵の題材にとても参考になっている本「プレアデス星訪問記」(上平剛史)がある。
プレアデス星の宇宙人と作者である地球人の対話形式になっている物語なのですが、ここでは人類の諸悪の根源は貨幣制度による行き過ぎた競争社会にあると言っている。
ほとんどの人は気づいてすらいない貨幣制度の浸透の深さ。これを止めないかぎり人類は滅亡せざるをえないとまで言っている。(もっと大切なこともいっぱい散りばめられている本です)
お金の心配をせずに暮らしたいものだ。お金のありなしで人を判断せずにいたいものだ。お金を持っている人が偉いような風潮はずっとあり、お金を持っていると好きなことができる。お金で左右されることがかなりある。
お金を稼げるかどうかでその人が成功者か破綻者かみたいな目でみられやすい。
お金を本当に好きになればお金が集まってくる。お金は流れるもので溜め込まず使えばいいのだとか、お金のイメージについて書いた本も何冊か読んでみたがどうもしっくりこない。
本当にお金とうものがなければ、なくても生活できる社会なら楽だろうなと思う。お金の計算をする暇があったらもっとほかのことをしたい。もっと霊的に進化しなければ人は残っていくことはない。
このままお金の為に使う時間と労力に押しつぶされて生きて行くのはあまりにもったいない。
この前、韓国を訪れたときある老人がいっていた。「全てのお金持ちは盗人だ!」
この言葉をどう思いますか。私はある意味正解だと思います。全ての盗人は悪人顔をしているわけではありません。美しい顔や服装、身のこなしをしていても盗人はいますよね。いかにして人を騙すか、いや騙すというより論理的に社会的に正統な手段で人の持つお金を引き出すかでしょう。ちゃんとした対価だという論理はありますが、本当にそうなのだろうか。利益というのは何なのだろうか。銀行家の考えだした利益のことと同じではないだろうか。利益ではなく対等な交換でいいのではないだろうか。利益という考え方があるから格差が広がるのではないだろうか。
商売を楽しむということがある。商人は飽きない仕事とか言うが、全ての人が商売人なんて気持ちわるい。
すべての人がお金に左右されているなんて、洗脳されっぱなし。
洗脳は洗脳されている限り全くわからないから洗脳のなだ。
お金教のシステムでは競争ゲームが必須だ。
車で街を運転すると分かる。
車は顔が見えにくかったり全く顔が見えない性か、運転者の性格や気分がもろにでている。
朝のラッシュ時には我先に争うことがほとんど。巻き込まれるといつのまにか自分も争っている。
争いに失敗すると交通事故とう結果になったりもします。
運転中はイライラは禁物ですね。
もともとスピードを出せるように車をつくるから事故が起きてしまうのです。
ゆっくりにしか走れない車や、自動で必ず止まる車を開発できるはずなので事故の起こらない車しか走れないようにすればいいのに。競争しなくてもいい交通システムにすればいい。競争を煽るようなイメージは止めて欲しい。
競争の単純なものは、走りっこではないだろうか。
走ることができれば、小さい時にだれもが経験する走りっこ。
ゴールでは必ず順位が決まるというシステム。一番とビリと、その間がでてくる。
それまで同じ友達だと思っていた仲間が、ゴールの瞬間に差別されることになる。
これが競争社会の基本なのだろう。小さいときから競争なのだ。
競争の面白い面もある。勝てば面白い。負ければ悔しい。
しかし、速いだけが勇者のようにするのはワンパターンじゃないだろうか。
強いものがいいのだというのは動物の弱肉強食だというが、動物は食いたくないときには食わない。
人は食いたくなくとも、ゲームとして食うし争う。
競争だけを全面にだしているかぎり、競争は止まらず、結果として隣の国同士で争い、戦争にしている。
全くばかげたことになっている。どこかの国で戦争しているのと同じようなミニ戦争準備群のようなことを毎日の社会のなかでやってないか。
自戒を込めて、ゆったりと俯瞰した気持ちでいよう。
お金と競争を考えなくて済む社会、
それを感じなくていい社会は本当にあるのだろうか。
本当に創れるのだろうか。
まずはイメージすることから。
少しでも近づくことをやってみることから。
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