2010年06月30日

癒しフェスタ

2010年8月1日(日)の金沢市の癒しフェスタin金沢に「光のマンダラ」で参加します。
場所は金沢市の金沢駅東広場もてなしドームです。
16時からです。
よろしかったら、見に来てください。
受付け近辺でスピリチュアルアートと光のマンダラDVDの販売をいたします。

iyashi_fes.jpg
posted by ライトーダ at 21:51| 石川 ☁| Comment(0) | ライブ情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月13日

Angelbird bi

angelbirdbi+600.jpg




以前制作したAngelbirdを少し中性的に。

2009年5月21日のこのブログで新作「エンジェルバード」
として掲載しました。
このころ読んでいた『霊的見知から見た世界史(中)』(平岩浩二著)の最後の章に、アメリカ合衆国の独立時代にあるネイティブ・アメリカンの話が出て来ます。あの有名なチャングムから7世代の後に、使命を口伝えしアメリカ大陸に渡った先祖からザイハという娘が生まれます。その託された使命とは・・・興味のあるかたは是非読んでみてください。

とても美しく強いザイハをイメージして絵を作ってみました。実際は黒髪だといいますし、ザイハは羽根のはえた天使ではないですからこの絵はザイハそのものではありません。これは新しいイメージを創るためのヴィジュアルのマッシュアップです。
ラベル:Angel
posted by ライトーダ at 22:25| 石川 ☔| Comment(0) | 神聖アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クレーム自己申告と絵を売るということ/メモ

クレームこそ、商売のマーケティングの企画のよきバネとなる。
これまで、言われてきたこれはおかしい、良くないとか、もっとこうしてというものを含め、多分こんなことを思っているのではないだろうかということや純粋に要望もまとめて書いてみよう。(順不動)

・高くて手が届かない。(額付き価格帯しか用意していなかった時に)
・どの絵なのか品番があるといい。同じ名で何種類かある絵がある。
・1点ものでないから価値が薄いのでは?
・他人の素材を使うなどものまねはダメ、完全オリジナルに進んでね。
・コースターになんて絵を貼付けないで。
・新作をもっと。
・作ってある絵を全部サイトに載せてよ。
・お申し込みフォームが簡素すぎでないのか。
・あの天使の絵、もっと中性的がいいのに。
・送料が不明確じゃないかな。
・リアルなお店がないの?
・もっと大きな絵が見たい。
・私の住んでる近くで展覧会があったら教えて。
・額縁は自分で選びたい。
・絵は実際に見てみたい。
・絵だけでなくてもっとやりたいことやってね。

クレームは聴くのは嫌な物だ。特に感情に入るとよけい重くなったりする。だけれど、クレームというきっかけがあるから良くなろうとする。
なかなかクレームは言ってくれる人も少ないこともあり貴重な意見なのだ。



さて、
絵を売るというのは、単純に絵を描くことと売るということの2つのこと。絵を描くということだけをやっていれば、売ることは当然考えなくても良い。売ることが主軸になってくると絵描きとしてはちょっと違うのではと思うことも。しかし、売れないと絵を描く道具も手に入らなくなる。

新しいPC、それも高性能のマシンでメモリをフルフルに積んでおもいっきり最速でイメージのおもむくまま絵を描けたらどんなに素晴らしいか、タブレットもいいやつを使えばなめらかな線が描ける。ソフトもしかりバージョンの最先端を行く。モニターも大きくしてソフトのメニューは別画面で。回線も光がいいし、保存も何テラでもあるとベスト。

と思うと、高く売って、沢山儲けて資金をつくり投資して行くというのはアリである。絵を売ることが絵を描き続けるための方法でもある。

しかし、別にお金を得るのは絵に限ったことではなく、他の稼ぎでもよい。もっと効率的な方法があるのではないか。まったく別のことをしてお金を得るのもひとつ。またパトロン的なバックアップや協力を得るのも一つ。ただ、全く別のことにハマリすぎて絵を描くことを忘れてしまっては人生という短い時間制限の中では、後戻りができなくなる。ゲーテ曰く「芸術家よ君は限りない時を貫いて生きる、不死を楽しむがよい」とあるが、果たしてアセンションをふくめ魂はいまの絵を描くということを覚えていればいいが、もし忘れてしまうなら、いまという人生中にやらないと。またパトロン的な人や協力する人がいるとしてもその人の好みが入る様ではとてもややこしいことになってします。その人は完全にお金や状況を提供だけしてあとは自由に絵を描きなよといってすむような感じだろうか。なにがしかのお返しをしたくなるのではないか。お返しを要求するのではないか。冠的なスポンサーとしてお金を補助してもらってもなにかしっくり来ないという気持ちがあるだろう。でも時間をずーとのばしてみればそんなことはどちらでもよく、結果として何かできてアートできたことがいいのでは・・・・・



絵を描く。絵を売る。
アートをすることとアートを売ること。


絵を売るためにあれやこれやと考えて実行する。
結果として売れて、嬉しい。
本当に嬉しい。
絵を売るためのあれこれは、絵を描くこととは関係ないように思う内容もある。値段を決めるというのは微妙な差異を察知して2,500円なのか3,000円なのかそれとも3,500円なのかその間の値段なのかなど、絵を描くのにそれほど関係のないことを考えることともいえる。

明日、イベントがあってそのために絵を用意する。絵をプリントしたりこれまでのを用意してキレイにそろえたり、それも楽しい作業といえるのだが、絵の値段をどうしようというときに思考や行動がとまるような感じを経験した。明日は商売なのかアートなのかと。

全てが創造といえるなら、アートだけが創造的なことではなく、商売もすばらしく創造的になれるはず。ならば、料金を決めることにも深く創造の泉が関与しているはずなのだ。職人はお金の計算が苦手なんだよなーという既成概念があり、それを鵜呑みにするような洗脳的な状況にあるアーティストや作家は、逆にたくましく稼いでアートをするのもいいもんだというよう自己洗脳できるといい。

繊細な感覚を研ぎすまして極めていきたいとか思うなら、お金の面でもその繊細さがあっていいのかもしれない。バナナの叩き売りのようなざっくりまとめて、はい!というノリも面白いのだが。

感動の度合いが測れるモニターがあって、その度合いで料金がその場できまるという感動価格があるといいかもしれない。だから同じ品、絵であっても同じ人が時と場合で感動の度合いが違ってくるから料金も変わるというのは、とってもライブで面白い。じゃ無感動のポーカーフェイスで行こうとしてもそれはそれ。忍者の様にうまく感情をコントロールできるなら、あっぱれということ。そんな姑息な技など軽く凌駕する程の感動する作品を見せつけて感動の針を振り切ってみるのも面白いだろう。

センスというのがあって、絵を描くとセンスがでる。デザインをするとセンスがでる。だから絵を売ると売り方にセンスがでる。きっとそうだろう。










ラベル:クレーム
posted by ライトーダ at 01:05| 石川 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月03日

新しい組み合わせと物まねコピーがアートの元

 コンピューターグラフィックスによるアート(CGアート)では、よく合成という言葉を使います。この合成という言葉を自分の制作したスピリチュアルやヒーリングアート作品を誰かに紹介するときに使うことがあります。しかし、合成という言葉がどことなく安っぽく、既成概念が入った感じで受け取られていそうで、何かしっくり来ないと思っていました。

 「創造力とは情報の組み合わせ能力だ」と言われている。と、いうことを、『オリジナル・シンキング』(高橋宣行著)という本で読みました。アート的に発想や企画をするといいよという部分もある内容の本ですが、合成という言葉について何か他にいい言葉がないかということのヒントになりす。

 単純に何かと何かを合わせてくっつけるというような、合成という感覚よりも「新しい組み合わせ」なのです。アート作品の合成といわれる過程は、新しいアートの組み合わせを模索し、アートの新しい組み合わせを探すというイメージの方に近いものがあります。アートをする上でこの考え方が役にたちます。

 もちろん単純に合成したいという時はあります。それはそれ。私がよく行う合成(新しい組み合わせ)には、二つの絵をレイヤーで重ねて新しい形や色を見るということがあります。アドビフォトショップではレイヤーにした画像をモードによって合わせてみることができます。たった二枚の元画像から新たに別の画像が出来上がるのです。

二枚の絵をモードで重ねるだけで一発で決まる場合も希にありますが、ほとんどは部分的に選択してモードの掛け具合の割合を変えてみたり、エフェクトの掛けたりかけなかったりいろんなことを試しています。

合成は合成なのですが、同じ重ねるにしてもその新しい組み合わせから生まれる新しい見え方を探し出せばいいのです。新しい形や色が現れたときに自分がスゴいとかキレイだと思えたらOKサインです。それが、新しいスタイルであれば、他には無い価値もあるので新鮮ですし、興味を引かれることにもなります。

すでにある、誰かが行った一つの組み合わせ方を知っていたとしてもそこに新しいセンスで編集することで、新たにとっても斬新なデザインやアートになりえます。そのセンスは各自の持っているセンスでしかありえなく、誰も真似のできないセンスを各自が持っていると思います。似ていても非なるものになります。センスの磨き方や繊細さの出し方は別の機会にゆずるとして、今回はアートの元、創造の元について少し触れたいと思います。


合成の前にもう一つ、コピーということがあります。複製のことです。
著作権の問題はありますが、根本的にはすべてはコピーからスタートするのではないでしょうか。アート作品も全く何も無いところから発生することはあり得なく、必ずなんらかのコピーから発生しています。オリジナルは先ずコピーから生まれます。本人がどんなにこれは俺のオリジナルだ私だけのオリジナルだといっても、例えば素材自体はコピーそのものです。

学生の時に、ゴッホやシャガール、クレー、鳥獣戯画などのコピーをしたことがあります。コピーをするとその作家の感じ方というか気分というかいろんな言葉にならないことが分かるとまでは行かずとも、何かを少しだけでも掴んだような気分になれました。

鉛筆や色鉛筆、パステル、絵の具で自分が描くのですが、自分でない人の筆跡をなぞってみると、具体的な塗り方や勢いや色の使いかた色のバランスの具合などが分かってきます。だから瞬間だけも、ゴッホやシャガールと一体化したような気分になれたりします。

スケッチをするということも、外界に見えるものを模倣しているのです。コピーなのです。自然を描くというコピーをすると面白いです。例えば植物は生きているのでスケッチの初めと終わりにでは動いていることがよくわかったりします。植物にもよりますが、花などは動きまくりです。だからコピーといってもある意味瞬間を捉えるということになります。

職人に教えを乞う時にはじめは掃除から道具の片付けなどからともいいますが、掃除をすることで場の状況を記憶して、道具の置き方からすでにコピーが始まっています。

ただひたすらコピーすることを続けているうちに必ずその人のセンスが見え隠れしてきます。そしていつしか自分なりの作業手順や道具の使い方がでてきて、オリジナルの形が生まれ出し、いつしかコピーから卒業します。はい、じゃぁ1000本ノックいくぜ!1000枚もあるものをコピーできたら偉い。きっとその時は何か必ずつかんでいるぜ。

コピーや合成という簡単な方法を自分なりに使いこなすことで、新しいアートが生まれます。

だけど新しい組み合わせと言っても、一体何と何を組み合わせるのでしょう。物と物だったり、考え方と考え方でもいいし、一対多,多対多も、物と場だったり、行為と状況というパフォーマンス的なことだったり、日常と非日常など、それらの軸(AXIS)の持って来方でいろんな変化が起りますね。


もう一つ「置き換え」ということがあります。
ロイ・リキテンシュタインという近代美術の作家はコミックアニメの小さな一場面の絵をばかでかく大きくして、雑誌印刷のアミ点のつぶつぶがはっきりわかるくらいにしました。本来なら雑誌上にある小さなサイズの絵を壁に大きく拡大するという、場の置き換えをしたのではないでしょうか。

小さな辞典の文字をコピー機でどんどん大きくすると違ったところが見えてきて面白いです。

画像を創ったとして、その一部をカットしそこだけを大きくして新しい画像のスタートとすることも面白い方法の一つです。全くなにも素材が無い時にもこの方法でベース地だけでも完成します。なんとなくさまになったりします。画像ソフトで詳細な部分を超拡大するのです。例えば4ピクセル×4ピクセルのランダムな16個のピクセルをその境界がなじむ様にぼかして400ピクセルとかに拡大するなどです。

これらの行為にどれだけワクワクするか、思わぬ形や色がでてくるかでアート心に火がつくかもしれない。

**マッシュアップ、リミックス
ラベル:アート
posted by ライトーダ at 22:02| 石川 ☀| Comment(0) | アートライブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
写真素材 PIXTA